Ryo Kato

生い 立ち



1978 年,中国山地の山中に位置する岡山県新見市に、陶芸家の父、彫金作家の母の間に生まれる。生後1年半程で、 鉛筆を持って盛んに絵を描き始める。趣味で囲碁を打っていた父親から6歳の時に突然囲碁を教え込まれ、ほぼ強制的に毎日囲碁の勉強をさせられる。無論、囲 碁より絵を描くほうが好きだったが、父親に嫌われることを恐れたために、嫌々ながら父親との囲碁の勉強を続ける。

8歳 のある日、父親から「東京に住むある囲碁のプロ棋士の先生の所へ弟子入りして、プロ棋士を目指すか?」、と問われる。家族の元を離れて暮らすのは嫌なの で、すぐに「嫌だ。」、と答えるが、父親のあまりに落胆した様子を見て、ついこれに同意してしまう。

本当 は囲碁を好きではなく、プロ棋士になることにも全く興味がなかったので、この父親の問いへの返事が私の人生を大きく変え、苦難の少年時代が始まる。

普通 囲碁の世界では、中学生になってから弟子入りするのが普通なので、さすがに8歳での弟子入りはきついということで、結局家族ごと東京に1年間住み、毎日小 学校から帰った後囲碁の先生の所へ通う。この後小学校4年生になったところで、この先生の家に弟子入りさせられる。私が一番年下で、4人の年上の兄弟子が 居て、年が近くても3歳上、後は10歳程年が離れていた。


内弟 子生活はまだ幼い私にはかなり厳しいもので、朝夕に家の掃除をさせられ、洗濯等の身の周りのことは一切自分でしなくてはならない。更に大変だったのは食事 の事。というのもこの囲碁の先生は50代で独身、80代になる先生の母親が弟子たちの食事の面倒をみていたのだが、高齢のため時には自分で何か料理を作る 他なかった。

そし て最も辛かったのは、1年に1度しか故郷に帰ることが許されなかった事。普通、弟子はプロ棋士になるまで故郷に帰ることを許されないのだが、私の場合は異 例で中学生になるまで1年に1度故郷に帰ることを許される。こうして、毎日仕方なく碁盤の前に座り、兄弟子達が皆居ない間に隠れて絵を描く日々がしばらく 続く。


私は 大自然の中にある田舎に育ったので、大都会の東京生活はあまり好きになれず、絶えず故郷に帰る日を待ち焦がれる。この「生まれ故郷の大自然」と「大都会の 東京」という大きなギャップが、「いったい、人間とは何なのだろう?本来、人間のあるべき生活とは何なのだろう?」といった事を幼い私に絶えず考えさせ る。この頃から今に至るまで、「人間と自然」に関する自分なりの哲学が発展して行く。この子供の頃に、今の私の芸術のテーマの基礎ができたと思う。


中学 に入り、好きでもない囲碁と自由のない内弟子生活、そして見通しの利かない将来に不安は募るばかり。隠れて絵を描くことが唯一の救いだったが、「普通、芸 術家には容易になれるものではない。」といった大人たちの口にすることを無意識に受け入れていたのか、「画家を目指したい」ということを当時考えたことは なかった。

しか し中学3年生のある日、私にとって人生の転機になる運命が突如やってくる。

囲碁 の勉強が嫌なため家に帰るのが苦痛だったので、学校が終わっても大抵友人達と会うか、一人で町をぶらついていた。そんなある日、あるいつも行く本屋に居た 時の事だった。

私は 子供の頃から好奇心は強いほうだったのだが、いつもはただコミックスのコーナーで漫画を立ち読みするだけだったのだが、この日は何を思ったのかふと「芸術 というものは、いったいどういうものなのだろう。」と、突然それを知りたいという気持ちが湧く。

そこ ですぐに、初めて芸術に関する本の並んだコーナーの前に立つ。当時は芸術に関して一切知識が無かったので、いったいどの本を手にすれば良いのか分からな い。そこである全集のアーティストの名を、左から右へといった具合に一通り目を通す。この全集は、主にフランスの印象派等を扱ったものだった。芸術に関し て知識は全く無く、ましてやアーティストの名など知る由もない。

しか し、「モネ」という名を目にした時、何故か、「どこかで聞いた名前だな。」といった妙な気持ちが起こり、そしてそのモネの画集を手に取る。これが生まれて 初めて自発的に手に取った、芸術に関する書物になる。そして、この画集を開くとすぐに モネの絵が私の心を揺さぶる。思いがけなかったこのモネの絵に痛く感動し、涙がこみ上げてくるほどだった。恐らくこのモネの風景画に、自分の生まれ故郷の 大自然を思い出したのだろう。と言うのも、中学生になってから故郷に帰る事を許されていなかったので、約3年間故郷の地を踏んでいなかったのだ。手持ちに 金がなかったので、

金を 取りに家へとんで帰り、このモネの画集を買う。この日から毎晩、寝る前にこの画集を見るのが毎日の楽しみになり、この画集を毎晩見ている内に「芸術家にな るのが自分の本来進むべき道なのだ。」、と思うようになる。こうして暗闇の中に一筋の光が見え、徐々にそちらの方へ導かれる。


とり あえず油絵の使い方を学ぼうと思い、中学の美術の先生に頼み油絵の技法を学ぶ。運命とは皮肉なもので、嫌々出された東京でこうした芸術との出会いがあり、 また好きになれなかった東京という大都会だったからこそ、時折モネ等の数多くの展覧会を見ることができ、私の芸術の感性が磨かれていく。

私の 「芸術家になりたい」、という意志は強く、結局これには父親もどうすることもできなく、中学を卒業後ようやく内弟子生活から開放され故郷に戻る。この時の 開放感は、まるで長年閉じ込められていた牢獄からようやく出獄できた、といった感じのものだった。


この 時点が私にとって、本当の意味での人生の始まりだった。ようやく自由の身になれたので、それまでに失った時間を取り戻そうと、色々な意味で自分の目標のた めに必死に励む。高校では美術科を専攻し、学校の後は美大受験生を対象にした絵画教室で学び、週末は印象派の画家を手本に郊外で風景画を描いていた。大都 会を好まず常に自然に憧れていたので、故郷の大自然は大いに私を感動させ、多くの風景画を描かせた。当時はまだ、自分の「人間と自然」に関する思想と芸術 の間には繋がりがなく、ただ自分が感動する風景をキャンバスに表現することに夢中になっていた。

モネ から芸術に入ったのでフランスに段々と興味を持ち始め、高校2年生の頃卒業後のフランス留学を考え始める。父親が私と同じくらいの年の頃、カナダに留学し ていた話を聞いていたので、子供の頃から外国には漠然と興味を持っていた。


とり あえず自分の目で確かめようと、高校2年の冬に初めて独りで外国旅行に出かける。2週間のパリ旅行だったが、このとき受けたカルチャーショックはとてつも なく大きなものだった。このとき初めて、日本という国がどれほど小さなものか痛感する。このカルチャーショックは、私の芸術に対する考えにも大きな影響を 与える。それ以前はただ風景を描くことに満足していたが、パリで初めて現代美術に触れたことによって、一つの疑問が生まれる。それは「自分がこれほど感動 させられる風景がすでに自分の目の前に存在するのなら、いったいなぜそれをまたキャンバスに表現しなくてはならないのだろうか?」、といったものだった。 これを皮切りに、自分の「人間と自然」に関する思想を芸術を通して人々に伝えたいといった欲求が起こり、それを元に新たな制作を試みる。この転機をきっか けに、日本の芸術教育がとてもアカデミックに感じ、絵画教室に行くのをやめ、独学で制作を始める。


この 旅の後留学を決意し、高校卒業後すぐにパリに留学する。

本当 はこの留学の直前にはすでに、「現代美術の中心がドイツだ」ということを知っていたのだが、この留学のために必死でフランス語を学んだり、すでに準備を すっかり整えていたために、とりあえずそれでもまずパリに留学する。

パリ では語学を学ぶ傍ら、自分独自の表現を確立しようと毎日1枚というペースで、とりあえず頭に浮かぶイメージを片っ端から描き続ける。それまでには、見たも のを描く事しかしていなかったので、何か想像のものを生み出すという事は、自分にとってひとつの大きな壁だった。何十枚と描くうちに、徐々にそれなりの傾 向が見え始める。この白熱した制作と平行して、定期的にパリのギャラリーにも目を通すが、時間が経つにつれこれらのギャラリーに展示されたパリの現代アー トをつまらなく感じるようになる。パリでの滞在が9カ月を過ぎたところでもう我慢が出来なくなり、突如ベルリンに移る。


パリ の現代アートに退屈していた後だけにあって、ベルリンの若い作家のパワー溢れる現代アートは、私の目にとても新鮮に映る。また、常に新しい動きが起こると いったベルリンの町自体のエネルギーが気に入り、ようやく活動の拠点を見つけたと確信する。

偶然 なのか、私の芸術のほうでも突如大きな変化が現れる。それまではっきりとしない抽象的な形しか出てこなかった画面に、ベルリンに移ってからの第1作目で突 然人物が現れる。その人物の腹部からは木の幹が生え出し、足は地面に根ずくといったエネルギー溢れる像が現れる。奇妙だが自分で描いているにもかかわら ず、なぜこのようなイメージが目の前に現れたのか自分でも分からず、自分自身驚かされた。言ってみれば、何かにとり憑かれてて描いているような感じだっ た。 しかし、このエネルギー溢れる表現が自分独自のものだと自覚して、この人物はそれから今日に至るまで絶えず発展していき、私の芸術の表現の基礎となる。

この 自分の表現と共に、現在も自分の「人間と自然に関するメッセージ」を人々に伝えるべく活動している。